はじめに
製薬業界では、人工知能(AI)やビッグデータを使った創薬プロセスの変革や、最新のデジタル技術を使ったウェアラブルデバイスの開発など、さまざまなソリューションが開発されています。
最近は、ヘルスケア領域にてリアルワールドデータ(RWD)の積極的な利用が進められており、海外では新薬の承認申請、医療機器の開発、予防医療など、幅広い分野でRWDを利用するための検討が進められています。
日本でも同様の検討が進められており、2018年に次世代医療基盤法が施行されたり、医薬品の製造販売後の調査及び試験の実施の基準に関する省令(GPSP省令)が改正されたりなど、RWD活用に向けて環境が整備されています。
今回は、代表的なRWDである電子カルテデータに着目し、電子カルテデータがどのように解析・利用されているかの現状と、その課題を見ていきます。
電子カルテとは
カルテとは診療録のことで、医師が診療の内容や経過などをを記録した文書で、医師が医療行為を行ったときは、その内容を必ずカルテに書かなければならないことが法律で定められています。
以前は医師が手書きでカルテを作成していたため、診療記録としての意味はあったものの、記載された情報の有効活用はほぼ不可能でした。
電子カルテとは、これまで紙に記録していた診療情報をコンピュータに入力し、電子化することで別の診療に生かすための情報システムの総称で、電子カルテの普及によりカルテのデータを使った、新たな価値の創造が可能となりました。
電子カルテデータを利用した取り組み事例
電子化されたカルテデータと、自然言語処理(NLP)など最新のデジタル技術を組み合わせることで、従来になかった新たなソリューションの開発が進んでいます。
電子カルテデータを使った、取り組み事例を見てみましょう。
ファイザーの事例
ファイザーは次世代医療基盤法に基づき、電子カルテなどのRWDを使って、腫瘍領域において臨床アウトカム評価の研究を進めています。
次世代医療基盤法とは、医療ビッグデータと言われる電子カルテやレセプトを匿名加工するための法律で、認可を受けた企業だけが商業目的に匿名加工することができるとされています。
ファイザーは認可企業であるライフデータイニシアティブ社から匿名加工されたデータを入手し、化学療法レジメンや放射線治療などの効果、安全性などを評価対象として、有用なアウトプットを引き出すためのアルゴリズムの研究を進めています。
国立がんセンターの事例
電子カルテの診療情報などのRWDを、製薬企業での新薬の開発や治験、予防医療などに活用するため、国立がんセンターは富士通と共同で研究しています。
共同研究ではまず、国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)が所有する電子カルテの診療情報、症例の研究結果、同病院で診療を受ける患者の健康情報などの匿名化を進めます。
そして、それらの情報を製薬会社が新薬の開発や予防療法などに使えるデータに加工し、安全かつ高品質なデータとして提供することで、幅広く有用な情報や高度な解析サービスによる新たな価値の創造を狙います。
また、治験においては、電子カルテに記載の診療情報を自然言語処理などで安全性の高い統計データに加工することで、医療機関や製薬会社での効率のよい治験業務を可能にする新規治験サービスの構築を狙います。
さらに、日本の治験データを世界標準に適応させる活動を推進し、国際共同治験への精力的な参画をサポートしていきます。
大塚デジタルヘルスの事例
大塚製薬と日本IBMの合弁会社である大塚デジタルヘルスは、IBMのAIであるWatsonを使い、精神科向け電子カルテ解析システム「MENTAT」を開発しました。
精神科の電子カルテには数値情報の記載が少なく、症状や病歴など90%以上が数値化しにくいテキスト情報と言われています。
また、各医師の考え方が記載内容に反映されるため、症状は同じでも記載内容は異なるといったことが生じます。
したがって、精神科の電子カルテは主に記録を目的としており、電子カルテのテキスト情報を治療計画に生かすのは困難でした。
もし、電子カルテのテキスト情報から、入院の長期化や症状の再発につながる情報を抽出できれば、対処すべきことを関係者で共有し早期退院や再発の予防を実現できます。
MENTATは、電子カルテ情報を自然言語処理で解析し、入院の長期化や症状の再発に関する要素を抽出して自動でデータベース化することを可能にします。
このデータベースを使えば、入院後に患者がどのような経過をたどるかを予測できるようになり、実際に早期の退院につなげた実績も出ています。
日立製作所の事例
日立製作所は、米国ユタ大学が所有する糖尿病患者の電子カルテデータを解析することで、糖尿病治療薬の効果を予測・比較する技術を開発しました。
予測モデルの作成にあたって、約6,800症例のデータを基に、薬の種類・量・投与期間・体重・検査値の推移などを、時系列で解析しました。
その解析で得られた情報をさらに機械学習で解析することで、糖尿病の代表的な指標であるHbA1c値を低減できる確率を、薬の種類や患者ごとに予測できるモデルを構築しました。
この技術を用いることで、投薬開始後の治療結果を薬ごとに予測したり比較したりできるため、患者それぞれに合わせた最適な薬を選択できます。
電子カルテデータ解析の課題
電子カルテのデータをうまく活用すれば、新薬や新たなソリューションの開発につながることが期待できますが、データの活用や解析あるいは、電子カルテシステムそのものに課題があることも事実です。
電子カルテ導入の初期費用が高い
電子カルテを導入すれば、カルテ情報の有効利用につながるものの、電子カルテ導入の最大の障害は、やはり初期費用の高さです。
汎用の電子カルテシステムを活用できれば、初期費用はある程度抑えられますが、病院ごとにカスタマイズしたいなどとなれば、費用は大幅に増加します。
高額な初期費用がネックとなり、電子カルテの導入は思うように進んでいません。
電子カルテシステムの管理が難しい
紙のカルテであれば、医療機関の人員で維持管理することはそれほど難しくはありませんでした。
しかし、電子カルテシステムとなると、コンピュータウイルスや不正アクセスなどによる患者データの情報漏えい対策や、システムダウン対策などが必要となり、電子カルテシステムを維持管理する専門の人材や外部委託が求められ、コストアップにつながります。
電子カルテフォーマットが標準化できていない
日本における電子カルテの標準フォーマットは、保健医療福祉情報システム工業会(JAHIS)を中心に検討が進められているものの、まだ標準化は実現していません。
電子カルテの記載や保存方法などが標準化されていないため、患者を別の医療機関に紹介するときに、電子カルテのデータを送信して情報を共有するなどができず、データベース化のメリットを十分に受けられていないのが実情です。
情報提供における個人情報保護法適用要否の判断が難しい
例えば、電子カルテを導入している大学病院とデジタル企業が、AIの共同研究を行っているとしましょう。
大学病院がデジタル企業に対して医療情報を提供することは、個人情報保護法上、個人データの第三者提供に該当し、原則として患者本人の同意が必要です。
また、デジタル企業が医療情報を取得することは要配慮個人情報の取得に該当し、提供側と同様に、原則として患者本人の同意が必要です。
しかし、この共同研究が「学術研究の適用除外」に該当する場合には、個人情報保護法の義務規定が適用されず、医療情報の第三者提供または取得にあたり、本人の同意を得る必要はありません。
学術研究の適用除外の適用を受けるためには、学術研究を目的とする機関もしくは団体またはそれらに属する者であること、学術研究の用に供する目的で個人情報を取り扱うこと、の2つの要件を満たす必要があります。
デジタル企業はこの要件を満たさないように見えますが、民間企業でも研究機関との共同研究であれば満足するとみなせると、解釈されています。
ただし、研究成果を営利事業へ転用することは想定されていないため、純粋な学術研究と言えるかについて、プロジェクト毎に難しい判断が求められます。
おわりに
今回は、各社における電子カルテデータの活用事例や、電子カルテシステムの課題を見てきました。
近年、機械学習やディープラーニングなどを使って、医療情報から新たな価値を生み出す研究や開発が盛んに進められており、電子カルテ情報も情報源として大きな注目を集めています。
今回紹介したように、電子カルテ情報を使ってさまざまな取り組みが進められているものの、導入費用の高さなどからカルテの電子化が進んでいないのが実情です。
電子カルテのデータを使うことで、大きなメリットを生み出せることが分かれば、電子カルテの導入が加速するはずなので、引き続き電子カルテデータを使った取り組みに注目しましょう。
参考サイト
富士通,医薬品開発や治験に電子カルテ診療データなどのリアルワールドデータを活用 国立がん研究センターと新サービス創出に向けた共同研究を開始